哲学と精読

共通テストは辛い

あなたには独学が不可能である理由

独学という言葉の響き

近年、《リスキリング》や《大人の学び直し》といった語が流通しており、それに伴い、《独学》という名を冠した自己啓発系の書籍の売れ行きもよいようである。

独学にはどことなく峻厳な響きがある。魅惑的な言葉である。

黙々と努力を重ねる孤高の秀才といえば大袈裟であろうが、少なくとも、誰の手も借りずに、成果を得るという響きがある。これが魅惑的であることに異論はない。

この魅力は何も《大人の学び》に限った話ではない。

大学受験においても、独学志向は強化されている。

顕著な事態は、教育系YouTuberの影響力の増大と参考書ルートの跋扈である。

私はこの両者を全面的に否定しようというのではない。膨大な受験情報を小気味よく、まとめることで多くの受験生や指導者に貢献しているからである(そしてまた同時に、「高2の早慶志望です。〇〇はやったほうがいいですか?」などと吐く思考停止の香ばしいゲジゲジを再生産し続けている)

ここで触れたいのは、その負の側面であり、当事者である受験生(とその周囲の人)が注意しておくべき事象である。

「塾や予備校は要らない!」

「参考書だけで合格できる!」

これは部分的にしか正しくないテーゼであるから、賢明なる方々はスローガンを真に受けてはならない。50%くらい割引いて耳に入れるべきである。

逃げの独学になってはいないか?

そもそも独学には高度な学力を要する。

天賦の才がなければ、初心者にその高度な学力がないことは当然である。

考えてみれば分かる。

大谷翔平に憧れた小学生が、少年野球チームに属すことなく、草野球で腕を磨くだろうか。

俳句に興味をもったら、先生に見てもらわなければ、善し悪しも何も分からない。

あの藤井聡太でさえ師匠がいる。

どうして、英語や国語となると、《自分でできる》と思い込んでしまうのだろうか。

答えは簡単である。

自分の頭の悪さ正視したくないからである。

要は、幼稚なのである。

視野狭窄な教育観

このような返答があるかもしれない。

「勉強なら学校で教わっている」と。

そのような小生意気なひねくれ者には丁寧に回答する用意がある。

「あなたの教育観は狭小で、近代学校的な教育観に限定されすぎている」。

教育といえば、学校で行われるもので、そこでは一人の教師が多数の生徒に効率的に知識を伝授するものと考えてしまっているのである。あるいは、テストに小気味よく回答することが教育の目標と暗黙裡に想定してしまっている。

加えて、成績不振者は、本人は授業を一生懸命に聴いているつもりかもしれないが、実は何も考えていないことの方が多い。成績の良い人は見かけによらず、頭を使っている。残念なことに、頭のなかの動きは目に見えない。それゆえ、他人と比較しても無意味に近いが。

成績の悪い人は、尽くを使っていない

これは生徒に発問し続けた経験から断言できる。

これはデマゴーグでもアジテーションでもない。

頭を使っていないと言われると、カチンと来るだろうが、本当なのだから仕方がない。あなたは低能である。素直にこれを受け入れられるかが、将来の独学を成功させる分岐点かもしれない。

一寸のにも五分のである。ゲジゲジであることを受け入れて、「なにくそ!」と思えるかに懸かっている。

教師の発問

集団指導をしている講師は、多くの学生がボーッとしていることをよく知っている。

集団授業でよく言われるのが、「自分が指名されたと思って授業を受けてください」というものである。これは本当に親切なアナウンスであるが、真に受ける人は少ない。

残念ながら、自分が指名されない限り、その人は《休憩》してしまう

これで頭が良くなるわけがない。

教師の発問に無関心ということは、知的好奇心の欠如の現れである。知的好奇心を育てるのは教師の仕事であるが、のないところには出ない。むしろ、教師の仕事は、好奇心の芽を摘まないことである。教師を聖職者視することが無理難題を生んでいることに気づかねばならない。種を蒔くのは親の仕事である。

問いに向き合う=辛抱強さと自主性

さりとて、当人の知的好奇心に早々に見切りをつけるわけにはいかない。知的好奇心はあっても、何らかの阻害要因のために、それをうまく発揮できていないかもしれないからである。

個別指導や家庭教師の仕事は、可能性のある子弟に問いに向き合わせることである。無から有を生み出すことはできないが、有るものを育てることはできる。

問いに向き合うということは、その問いが直ちに解決できないことを意味する。

つまり、辛抱して考え続けなければならない

幼稚な子供はこれができない。回答欄に《分からない》と書けば、教師から答えが得られると思っている(また不幸なことに、そのような教育に慣らされてしまっている)。沈黙に耐えられなければ、《〜までは分かります》とか《ちょっと明日までに考えてきます》などと言えばよいだけのことである。

こうした発言のできる人は、独学・自学の態度が整いつつあるといってよい。

問いを自分のものとして引き受けているからである。

「自習で大丈夫です」「独学でいきます」などと言っている自分が、みっともない逃げの独学になっていないか、よく吟味してみてほしい。

分からない己を正視することのできない人間に独学は不可能である。