哲学と精読

共通テストは辛い

大学入試を考えている【普通の中学生】がやるべきこと

悲惨な「大学入試・共通テスト」

2024年1月13,14日に共通テストが実施された。主体性や思考力を測定するために、センター試験が改革されてから、今回で4度目の実施である。

英語が長文化したり、国語が複数の文章を読み合わさせたり、数学が実用的な場面を出題したり、と全般的に分量が多くなったため、受験者の負担が増加している。

平均点もセンター試験時代の約60点から、大幅に低下する科目もあり、出題状況が安定していない。第2回の共通テスト「数学I・A」は平均点が37.96点となる始末である。

今回は必ずしも教育費が潤沢にあるわけではない立場から、どのようにして大学受験へ向けて学んでいけばよいのかを考えます。

共通テスト=情報処理の全国大会?

英語について言えば、長文化の一途を辿っており、真面目に勉強してはいるが、どうしても読むのが遅い学生にとっては、辛い試験となった。平均点も速報ベースでは、52点程度である。

この共通テスト英語については、

《視力検査》《情報処理の試験》であって、英語の試験として不適切ではないかという指摘がある(筆者も同意見である)。

他方で、確かに速読が求められる試験ではあるが、英文自体は平易であり、英語力そのものを鍛えていれば、十分に突破できるという意見もある。

どのくらいの英語力が必要なのか?

ただ注意しておきたいのは、ここでいう「英語力」の養成には、並一通りでない期間(≠時間)を要するということである。

ごく普通の大学進学希望者(高校偏差値55〜65程度)の場合、高校3年間では足りない、というのが筆者の見解である。

まず第一に語彙である。

中学レベルの語彙を完璧に習得していると仮定しても、それに約2000語程度の語彙を上乗せしなければならない。

次に文法である。

共通テストの英文が平易とはいえ、高校程度の英文法を知らなくては、純粋な日本語環境で育ってきた人では、単語をつなぎ合わせる読み方では、到底歯が立たない。平易というのは、難関大学の二次試験の英文に比べてということなのである。

第三に読解である。

論理的に文章の筋を追いながら、内容を記憶にとどめつつ、素早く読み進めなくてはならない。

まず英文を精読して正確に理解した上で、それを自動的にこなせる無意識のレベルにまで落とし込まなくてはならない。具体的には長文を音読して復習することになるが、このレベルに達するまでには、それ相応の期間と覚悟を要する。

のんびりしていると「間に合わない」

多くの人は語彙の暗記を怠る。

また多くの人は、文法事項の論理性が理解できずに終わる。

精読はできても、文章を俯瞰的に捉えられない人も多い。

音読練習が足りず、速読ができない人も少なくない。

これが現実である。

受験業界は、顧客を獲得しなければならないから、数少ない逆転合格エピソードを祀り上げて、「まだ間に合う!」「今からでも遅くはない!」と捲し立てる。

確かに、今始めなくてはどうしようもないのだから、それは前向きに捉える方がよいことには異論はない。しかし、そもそも当の本人が「まさに今」からエンジン全開で努力を継続できること自体が稀であるという事実は冷静に受け止めなくてはならない。

最上位の中高一貫校生と闘わねばならない

都市部を中心とした全国的に有名な中高一貫生は、(十人十色ではあるが)小学生から勉強している。

質の高い教育と意識の高い学生に囲まれている。

仮に最上位の大学を志望しない場合でも、彼らの併願先は関東なら早慶、関西なら同志社となる。あるいは東大京大から、その他の旧帝大に志望校を落とすことも十分ある

中学受験=親がきっかけを与える

筆者は、そもそも中学受験なるものの存在さえ知らなかった。

素朴に公立の小中学校に通った。

高校受験のときも、高額な進学塾には通えず、模試の偏差値も55を超えることはなかった。つまりは、凡才である。

大学受験を意識したのは高校1年生からであるが、部活動はほんのちょっとにして、塾や予備校には頼らずに、3年間それなりに努力して到達したのは、神戸大学法学部であった。今の受験制度に自分がいたらと考えると、到底国立大学は望めなかったろうと思う。

それほどに現行の共通テストは、早期教育を受けた人々や文化資本の豊かな家庭に有利なのである

中学受験は大学受験以上に熾烈であるし、早期教育に関心のある世帯は平均年収が高いので、塾代の相場は高額になりがちであるし、そもそもごく普通の小学生が「大学に行きたい」と一念発起するケースなど稀であろう。

高校受験を目標にすることの危うさ

高校受験に対する意識をきっかけにして、大学受験への意識を中学生のうちに高めることができれば、ごく普通の家庭であっても、難関大学の受験に向けて、確実に準備を進めることができるだろう。

そうなると必要なのは、まともな学習歴のある大卒との交際である。

しかし、ごく普通の公立学校の教師は、無論大卒ではあるが、必ずしもアカデミックな思考様式を会得しているわけではない。それよりも重要な資質や能力があるから、当然のことである。これはまた、何も学校教員に限った話ではなく、大学の大衆化というまた別の問題である。

となると、塾講師の指導ということになるが、これも営利の絡むことであるから、「高校受験」に特化するものが多い。公立の中学生が対象となれば、単純化や図式化も往々にしてあるのではないかと思う。大学受験の塾が「人材育成」を目的としていないのと同様に、高校受験の塾は「大学合格」を目的にしているわけではない。

高校受験の偏差値が70を超える者たちが、私の出身校にさえ及ばずに、つまらない言い訳をしているのを、私は複雑な気持ちで傾聴したものである。大学受験もそうだが、高校受験は通過点であることを認識できているかどうかが、分かれ目になろう。

セルフ中高一貫教育の必要性

中高一貫のメリットの一つは、青春というきな臭い思想がこびりついた「高校生活なるもの」を獲得するための儀式をスキップできることではなかったか。純粋に勉学に取り組むゆとりがそこにはある(素朴な小学生時代は犠牲になるが)。

私見ではあるが、高校受験は背伸びしすぎないほうがよいのではないかと思う(地域にもよるだろうが、学校の勉強で学年10位以内に入れるよう努力しておこう)。無理をして難しい高校に入学するより、少し余裕をもって高校の学習を進めたほうがよい。高校1,2年で習うことなら、志望校のランクを一つ落としても大差はないだろう。ランクよりも校風で選んだほうがよいだろう。

さて、それゆえセルフ中高一貫教育となると、高校受験はそこそこにしておいて、主要な英数国基礎の基礎から長期間に渡って、仕込んでくれる教師を見つけるのがよいだろう。また、基礎を学ぶことほど難しいことはないことも付言しておこう。

教師を判定するポイント

・学歴

・指導歴

大雑把に言うと、この2つの掛け算によって、教科理解の質と費用が定まると言ってよい。

世間的には高学歴とは言えなくても、英語や国語を専門的に深めている教師も多いし、京都大学の学生と関西大学の学生とでは、教科理解の質の差は歴然である場合も多い。教科理解の低い教師は、基礎を教えることはできない。

これはまた私見ではあるが、もう一つのポイントがある。それは、

・教育観

である。

大学受験を想定するなら、「生徒に寄り添う」などという流行りの甘言を弄する教師は避けたほうがよい。そのような教師を必要としているのは、勉強が嫌いであったり、極度に苦手な学生である。それは公教育の領分でもある。

私は何も弱肉強食を言おうとしているのではない。

ある程度の資質があるからこそ、その才能は厳しく鍛え上げるべきであるし、そうして獲得した能力は、是非とも弱き者を助けるために使ってもらいたいからである。

どのようにして教師を探すか?

近隣に確固たる教育観をもった塾があれば、それが一番よい。

規模は大きすぎないほうが望ましい。組織にしがらみはつきものである。規模が小さい方が何かと融通も利くし、優れた教師が退職や異動してしまっては、どうしようもないからである。

次善の策は、オンライン教育を行なっている個人教師を探すことである。

コロナ禍以降、関心の高まったオンライン個人レッスンを行なっている優れた講師のウェブページが散見されるようになった。検索してみれば、数多くヒットするだろう。リーズナブルなものも多いようである。

無論、本名や素性を明かさなかったり、経歴詐称などもあり得るから、面接官のような気持ちで、証明書類などはきちっと提出してもらうなどはしておいたほうがよい。

最悪なのは、ふたつある。

・塾に丸投げ

・家庭教師派遣センターに依頼

教育において最重要なことは、教師との相性である。

勉強の嫌いな女子生徒に、哲学を専攻する博士課程の男子学生は、ミスマッチである。

大人しい男子生徒に、八方美人で浮気症の女子大生は、ミスマッチである。

瑞々しい知性に、女を口説いて図に乗っている男子学生は、有害である。

特に大学生はスーツなどを着込んで綺麗事を吐いているが、学歴問わず品行方正でない者も間々あるから注意が必要であると思う。大学生は利口で口達者なペテン師ぐらいに思っておいたほうが、後で失望することも少ない。

家庭教師派遣会社も「教師変更可能」を謳ってはいるものの、一度目に当たった教師とずるずるべったりのことも多い。私自身、紹介された生徒との価値観が合わないことを我慢しながら指導している。これではお互いに不幸である。

独学はできないのか?

これも一種の流行り言葉である。

一刀両断すると、独学には学力が必要である。

このことについては、次回の記事で詳説したい。