哲学と精読

共通テストは辛い

大学進学は不要なのか?ーホリエモンの極論を考えるー

ホリエモンの大学進学不要論

ホリエモンの大学進学不要論の概要はこうである。

  • 大学は頭がいい者が行くところである;大学は研究機関であるから、自学できる能力がない者には適さない
  • 頭のよくない者は手に職をつけるなどして収入を確保すべきである(一例として建設現場の測量士を紹介している);大学が専門学校よりも優れているというのは誤った信念である
  • IT革命以前は、大学が知的リソースの集積地であったため、頭のいい者も大学に進学する必要があった
  • IT革命以降は、情報が民主化されたので、頭のいい者は自ら知的グループに参加すればよい(し、現にそうなっている)

→大学進学は不要である

これらは一読すると、極論のように思われるかもしれないが、私は「正しい極論」であると思う。少なくとも自分が大学進学すべきかということを考える上での参照軸にはなるだろう。

ホリエモンによる〈頭がいい:頭がよくない〉という二項対立は、あまりにも素っ気ないから、もう一つ軸を導入してみたい。みなさんは、〈勉強が好き〉だろうか?〈好き〉だと答えた人にお伺いしたい。単にそれが〈先生への好感度〉に依存してはいないか。特に小中学生であれば、この点を区別していない場合が多い(だからこそ教師の振るまいは重要なのではあるが)。それゆえ、さらに次のように問いたい。その勉強とやらを通じて獲得した能力を活かして飯を喰っていきたいと思うか、その覚悟があるか。

ある程度自信のある子供なら、〈YES〉と答えるであろうから、さらに指摘しておきたい。もしあなたが地元の公立小中学校に所属している(た)のなら、その上位層であっても、ホリエモンの言う「頭のいい人」であるかは未知数である。これは義務教育という制度を考えてみれば分かる。公立小中の9年間のカリキュラムは全体の中央値にあわせてレベルが抑えられている(それでも世界的にはレベルは高いが)。したがって、高校以降、自分の適性がなかった場合に、それを努力によって補う覚悟があるかが問われているのである。

ホリエモンの持論は、結論は性急であるにしても、一面の真理を突いているように思われる。「高等教育機会の喪失」とおっしゃる方もあるだろうが、発達の進度を無視して18歳を一律に大学へ放り込むことに私は懐疑的である(大学だけが教育の場ではないし、基礎教育を充実させるなら、BF大学の実態を踏まえれば、中高での前向きな留年制度を拡充すべきだと思う)。あまり社会経験のないままに、学問の必要性を悟る者はごく少数ではないかと思う。

どうして大学に進学してしまうのか?

ではなぜ、ホリエモンが憂うように「頭のよくない者」が大学に大挙するのだろうか。ホリエモンは手に職をつけるのがよいと言うが、多くの頭のよくない者は、自分がどのような仕事をすべきなのかということについて、願望を抱くことはあっても、そもそも何も考えていないのである(ソースは私見であることは注記しておきたい)。彼らの大学に行く理由は、とどのつまり、「親に言われたから」、「周りが行くから」である。美辞麗句を振り回す者でも、数回、質問を繰り返せば、こうした本音が炙り出る(親は何故大学進学を勧めるのかについては、現代のホワイトカラーのリクルートシステムが根本にあるが、ここでは論じきれない)。彼らは「頭がよくない」からこそ大学へ無目的に進んでしまうのである。ただし、こうした受け身な態度を非難するには、10代は若すぎるようにも思う。むしろ、現代のホワイトカラーのリクルートシステムを踏まえれば、大学進学しないという決断にこそ主体性と勇気がいるだろう。

問う者の必要性

私が個別あるいは少人数教育に期待するのは、自分に主体性が欠けていることを自覚させることである。そして、主体性を獲得するということの理路を提示することである。これは容易なことではないが、カテキズムがキーワードになると思っている。

同志社志望の高3生(21)

現代文の指導

『現代文読解基礎ドリル』に取り組んでいます。今回は、演習8と16とを扱いました。

対比の意識は少しずつ芽生えている

私の見立てでは、どうも学生本人は対比を並列に矮小化しがちです。対立的に導入されている《AとB》を単なる列挙的並列と把握してしまうのです。今回もその傾向が見られましたが、以前より少しの補助で軌道修正できるようになっています。

演習8は、ヴァケイションとホリデイとの対比でした。各特徴は割愛しますが、対比において重要なのは、両者に共通点もあることです。共通の要素がなければ、対比が成立しにくくなります。

例えば、

ペットという共通点をもつ、犬と猫なら、対比が可能です。しかし、共通点がほぼ無いといってよいような、犬と電子レンジは対比が困難です。

今回の対比は、「労働を中断する」という共通点をもった、ヴァケイションとホリデイとの差異が対比されているのです。この対比の前提となる共通点は、あまりにも自明であるがゆえに《書かれない》場合もありますから、慣れないうちは意識して練習しましょう。

より精緻な対応関係を考える

演習16では、論と例がテーマでありました。

論においては、日本人の美意識が、階級を越えて共有された生活美学であったと主張されます。それを承けて、後段では、明治期の尋常小学校の教科書に、大学レベルの高度なデザイン技法が収録されていると指摘されます。

さてこの後段の例証は、論のどの部分をサポートしているのでしょうか。解答解説は残念ながら、荒っぽい段落ごとの対応関係しか指摘していません。

まず、論のポイントを整理しましょう。そこでのテーゼは大きく言えば、2つの系統に分かれます。

1.日本人の美意識は、階級を越えて、全ての日本人に共有されていた。

2.日本人の美意識は、生活の中から美を見出そうとする生活美学であった。

厳密に言えば、今回の例は、論の1の部分をサポートしています。つまり、小学校というほぼ全員が通う学校に、高度なデザイン理論が収録されていたという事実から、それが当時の日本人にとってはさして難解ではなく、常識的に知っていることであったと推論し、以て日本人全員に広く美意識が共有されていたことが明らかになります。

筆者の挙げる例からでは、日本人の美意識が生活美学であることは必ずしも推論できません。

アメリカニズムの終焉』を読む

筆者が引用する個性のイデオロギーの問題点を思想史的に敷衍しながら、数点確認しました。デモクラシーのイデオロギーが政治の領域から飛び出したとき、優れたものが平凡なものに飲み込まれていく有り様が洞察されています。

その後は、自由貿易に関する古典的な理論を政経の資料集などもあわせて勉強しました。主にリカードの比較生産費説が自由貿易の理論的根拠とされていますが、それは生産手段や生産条件が国境を越えて移動しないことが前提となっていたことを筆者は指摘します。各国の得意分野は、イギリスの土壌は〜に適しているが、ポルトガルの気候は〜に適しているといった、交換不可能な条件に基づいているという想定だったのです。しかし、現代では、圧倒的に優位に立つ情報産業の生産手段は、国境を越えて移動します。土地や環境に左右されることもない上、技術者をヘッドハンティングすることもできるからです。

同志社志望の高3生(20)

古文の指導

今回は古典文法の発展的事項を取り扱いました。

・自発の「る・らる」について;自発の状況を捉える

・聴覚推定の「なり」について;聴覚を根拠としない場合

自発の「る・らる」について;自発の状況を捉える

一点目から見ていきましょう。与えられた文は、

午時(ひる)もややかたぶきぬれど、待ちつる人は来たらず。西に沈む日に、宿り急ぐ足のせはしげなるを見るにも、外の方のみまもられて、心酔へるが如し。

全体を通読して、まずは話の輪郭を捉えましょう。

夕方になっても、会う約束をしていた人がやって来ない。そうした状況で、「外の方のみまもられ(る)」わけです。

赤字部分を文法的に解析してみると、

外・の(格助詞)・方・のみ・まもら・れ・て

ここでこのように分析するには、「まもる」という動詞が存在することと、その意味を知っておくことが必要かと思われます。色々意味はありますが、「目(ま)+守(も)る」で、じっと見つめるなどの意味です。

次に問題になるのが、「れ」です。

これは、助動詞「る・らる」の連用形ですが、上に「まもら」という未然形があるので、そうだと分かります。

さて、この助動詞には、受け身・尊敬・自発・可能の意があります。今回は自発に限って議論しますと、

心情や知覚を表す動詞「思ふ・驚く・偲ぶ・知る・ながむ・泣く・嘆く・見る」などに付く「る・らる」は、自発である場合が多いとされています。

今回は「まもる」という意の動詞なので、これに当てはまりそうだということで、一応は結構なのですが、もう少し《頭を使ってみてほしいのです》。

自発は「自然と〜される」などと訳されることが多いですが、《自然と〜する》とはいったいどういうことなのでしょうか。これは言い換えると《自らの意志とは関わりなしに、あるいは自らの意志に反して、無意識的にその動作を行なってしまう》ということです。

この状況において、どうして自発が用いられているのか、すなわち、どうして「外の方ばかりを自然と見つめてしまうのか」を考えてみることが大切であると思います。

西に沈む日とありますから、通常の活動時間はもう終わろうとしている頃です。つまり、待っている人は今日は現れそうにない時間になったと考えられます。それでもやはり、もしかすると来るかもしれないという期待の下、「どうしても外の方ばかりを見てしまう」という心境ではないかと考えられるわけです。

つまり、来ないとは理知的に理解してはいるが、気持ちの上では来るかもしれないという心境を映し出すような「自発」であると言えるでしょう。

聴覚推定の「なり」について;聴覚を根拠としない場合

宰相の中将こそ参り給ふなれ、例の御匂ひいとしるく。

この「なれ」ですが、基礎知識的には、推定の「なり」の已然形と分かればよいでしょう。次に考えたいのは、何を根拠にどのような推定を行なったのかということです。

推定の「なり」は、音ありに由来する聴覚推定です。例えば、足音から来客を推定するような場合です。

足音:推定の根拠となる聴覚・音

来客:推定

では、今回の文ではどうでしょうか。

まず推定の内容は「宰相の中将が参上なさったこと」です。では何が根拠になっているかと言うと、「例の御匂ひいとしるく」の「御匂ひ」となります。「匂ひ」は視覚的表現にも用いられますが、ここでは嗅覚表現のようです。ここに疑問をもてるくらいに、基礎を固めたいものです。

三省堂『例解古語辞典第三版』には次のようにあります。

聴覚に基づく判断を表わすのが原義だが、まれに聴覚以外の感覚に基づいての判断を表わす場合もある。…この例は、着物にたきしめている薫物のかおりが漂ってくるのに基づいて、ああ、あれは宰相の中将だと判断したものである。

基礎を固めて、それを忠実に適用することで、例外的事象にも反応できるようにしたいです。

同志社志望の高3生(19)

英語長文の指導

『システム英語長文Basic』の6を新たに読み進めています。設問は比較的簡単だったそうなので、論証構造の分析を中心に行なっています。

第一段落と第二段落は、However によって逆接的に接続されていました。こういう場合は、何と何とを接続しているのかを考えるところから始めましょう。

今回は、古代と現代における森林伐採のペースが逆接的に接続されていました。つまり、古代においては、森林伐採のペースは緩やかであったが、《However》現在では、そのペースは比較にならないほど急速になっているということです。

さて、第二段落はというと、第1文に先ほどの《森林伐採ペースの急速化》が述べられた後、第2文、第3文でその事態が《具体化》され読者に提示されます。第2文では、急速化の状況が、年に4200万エイカーの森林が伐採されていると《数値化》され、第3文では、それがブリテン島よりも大きいと《直感的に分かりやすく》されています。

この段落では最終文は以下の通りです。

While there are important reasons for cutting down trees, there are also dangerous consequences for life on earth.

While は期間や対比が一般的ですから、少なくとも期間ではないと分かります。ここでは譲歩として用いられています。そういう場合もあると知っておくとよいでしょう。ここでは内容的にも対比と譲歩は、近しい意味なので、なんとかなるとは思いますが。

つまり、木を切る重要な理由があるのは確かであるけれども、木を切ると地球の生命に危険な結果をもたらすことにもなる、という趣旨がつかめればOKです。

さて、この文の筆者のメインの主張は何でしょうか。それはやはり主節にあると考えるべきでしょう。この主張に肉付けがなされることを期待して読み進めることになります。

では、第3段落の第1文を見てみましょう。

A major cause of the present destruction is the worldwide demand for wood.

まず訳してみて意味を考えてみると、

現在の森林破壊の主たる原因は、木材への世界的な需要である。

ここで考えてみてほしいのは、第2段落とのつながりです。先ほど、メインの主張《森林伐採の危険性》について肉付けされることを期待すると言いましたが、その期待は裏切られていることに注目してください。期待が裏切られたからといって拗ねてはいけません。仮説と検証をめげずに繰り返しましょう。

さて、この一文は第2段落とどのようにつながっているのでしょうか。

A major cause of the present destruction

これはどの表現を承けたものなのか。従属節を見てみると…

While there are important reasons for cutting down trees

木を切る理由がある→木を切る→現在の森林破壊という流れが確認できます。

つまり、今回は第2段落で譲歩的に導入された内容が、この段落で主題化されているのです。仮にこのつながりが把握できなくても、主節の主張とは異なる内容がこの段落で語られるだろうということが察知できるとよいでしょう。

さて、第2文も読み進めると、

In industrialized countries, …とあります。これはworldwide の具体化です。せっかくなので、板書をお示します。

In industrialized countriesは、《一例》であるとしています。ワールドワイドといったときに、先進国のみを取り上げるのでは片手落ちだからです。つまり、発展途上国についてもこの後語られるであろうと予想できるわけです。

指導の難しさ

受講生は、様々な学校活動が重なっており、また他の事情も重なり、コンディションが悪い状態でした。後半は受け答えが苦しくなってきました。基礎知識で分からないときは、「調べます」と宣言して、調べたことを話すなりしながら、議論を進めてくださいと伝えていますが、今日は沈黙が続いてしまいました。

勿論、いいパスを出すことが私の仕事ではあるのですが、試験場では一人で答えを出さなければなりませんし、限られた情報から正解へと進んでいかなければなりません。ただ疲れているとこれはできません。かと言って、それでは授業が成り立ちません。コミュニケーションの次元で解決できることでもないので悩ましく思います。

同志社志望の高3生(18)

現代文の指導

引き続き『現代文読解基礎ドリル』に取り組んでいます。本人も慣れてきたようで、自習でスムーズに進めてくれているようです。今回も私が特に注目した設問を復習がてら取り上げて、検討していきました。

対比の章の演習6を扱いました。内容は、喜劇論であり、ある喜劇の作品としての価値を判定するような文章でした。

論を捉える

冒頭5行ほど割かれて、劇作家であるサイモンの喜劇『おかしな二人』について述べられていました。生徒はこれを《具体例》であると把握していました。それ自体は、必ずしも誤りというわけではないですが、サイモンなり『おかしな二人』なり、固有名詞が出現しているから《具体例》であると判断するのは、(予測的な読みとしては許されるものの)早計であると指摘しました。

なぜなら、評論文における《具体例》は《論をサポートする》ものとして、《論と例》がセットになっていなければならないからです。今回の『おかしな二人』についての記述に対応する《論》はなく、ただそういう喜劇があると紹介されているにすぎません。

ではなぜ紹介されているかというのは、続きを読めば分かります。

次の段落では冒頭で、「多幕物の喜劇をただひとつの趣向を用いて成立させることには、実はかなりの無理がある」と指摘されています。ここでのただひとつの趣向を用いた多幕物の喜劇とは、サイモンの『おかしな二人』であることは第1段落を読めば分かります(し、それ以外に候補がありません)。

つまり、《サイモンの『おかしな二人』は、無理がある》というのが筆者のテーゼ(論)であり、ここでの固有名詞は《例》ではなく、《論の一部》あるいは《論の対象》というべきなのです。

いかにして論を説得力あるものにするか

続いての問題は、論をいかにして証明するかということです。

理由や根拠のないテーゼは、論ではなく、単なる意見表明です。筆者は読者に納得してもらえるように、論の根拠を提示することに関心がある場合が多いです。

さてこのような論証にはいくつかの手法がありますが、ひとつには《論と例》、すなわち具体例を提示することによって実際に論が正しいことを証明する場合です。

もうひとつは、今回の対比です。つまり、サイモンの喜劇と、他の喜劇とを対比することによって、サイモンの喜劇の性質を明らかにし、以て論の正しいことを示すのです。

詳しく言うと、サイモンの喜劇を傑作とされるシェイクスピアゴルドーニの喜劇と対比させることによって、サイモンの喜劇が傑作ではないことを論じるということです。

・AとBとのあいだには、《重要な違いがある》

・Aは〜である。ところが、Bは〜である。

形式的にはこういった表現に注目して、対比による論証を意識していくことが大切です。内容がよく分からなくても、分かるところから始めることが鉄則です。

因みに《論》は繰り返されるという傾向がありました。今回は、《論→対比による論証→論》という構造になっています。

・多幕物の喜劇をただひとつの趣向を用いて成立させることには、実はかなりの無理がある

・『おかしな二人』とは、設定について無理をした結果、傑作になりそこねた

この二つはほぼ同趣旨の論の繰り返しであるということです。

同志社志望の高3生(17)

源氏物語を読む

源氏物語を読むということですが、ここ最近は文法的分析が中心になっています。注目せざるを得ないほど複雑なので、いい演習になると思ってるところです。

演習において重要なことは、答えを言い当てることではなく、仮説と検証のプロセスを繰り返して合理的に回答案を出すことです。このあたりの発想がまだ本人に乏しいので、その意味でも指導が必要です。

さて、課題となったのは、

母君泣く泣く奏してまかでさせたてまつりたまふ

という一節で桐壺更衣の病が重くなったために宮中を離れなければならないという場面で、テーマは主体客体の判定と敬語法の整理です。

「母君泣く泣く奏し」まではほぼ適切に理解して説明できていました。次に問題となるのが「て」でありますが、結論的には接続助詞となりますが、助動詞「つ」の連用形と把握してしまいました。これは直後に「まかで」と動詞が続いているので順序としておかしいということで、仮説を修正できました。

さて、「まかづ」ですが、先週はその基礎知識をすぐに言えていましたが、今回はやけに詰まってしまっていました。詰まったときは資料を参照してよいと伝えていますので、本人は参照するのですが、その参照の仕方が「クローズド」な点が問題であると思いました。それは所作から明らかで、手元を隠しながら、解説書を参照していました。そして、そこに書かれてある結論だけを読み上げたのです。これでは議論になりません。そこに仮説と検証の思考がありません。

まず、参照資料を明らかにするよう指示しました。勿論、私が配布した資料なので、何であるのかは知っています。重要なのは、私が参照元を知りたいということではなく、本人が参照元をはっきり自覚して表明する態度が必要だということです。私に答えを言って◯をもらうことが目的になっては、学習はお終いです。

その解説書には結論的な答えのみが書かれていることを指摘して、その答えを目指して基礎から説き起こすように指示していきました。

その後の議論は、複線的なので説明しませんが、重要なのは「迷う」ということは複数の可能性があるということであり、その可能性を留保しつつ、最も合理的なものを検討するということです。勿論、最も合理的と思われたものが、検討していくと間違っていることに気づく場合もあるでしょう。そのとき、振り出しに戻る根気も大切です。そこは根性の見せ所だと思います。

 

ポイントだけまとめると

母君泣く泣く奏してまかでさせたてまつりたまふ

①接続助詞「て」→「まかでさせ…」の主語も母君である可能性が高い

②「まかづ」は謙譲の本動詞で「貴人の所から退出する」→この文脈からして「桐壺更衣が帝のもとから退出する」可能性が高い

→①・②より、「させ」は尊敬ではなく、使役の可能性が高い。尊敬だと「母君が退出する」という意味になってしまう。

③「たてまつり」は謙譲、「たまふ」は尊敬のいずれも補助動詞として用いられている

→尊敬は行為の主体、すなわち母君に敬意を表す

→謙譲は行為の客体、すなわち「まかでさす」という使役の対象(桐壺更衣)に敬意を表す

→「まかづ」だけを取り出すとそれは謙譲語として、帝に敬意を表している

なぜ最難関大学でなければならないのか?①

難関大学を目指さなくてもいい?

学歴だけが全てではない

・東大や京大でなくとも、十分いい企業に就職できる

・大学名ではなく、自分の学びたいことを基準に大学を選ぶべきだ

これらはみな正しいと思う。

確かに、就職やその後のキャリアということを考えると、必ずしも東大や京大に拘る必要はない。関西なら大阪公立大や同志社でも全然構わないと思う。

3つめに関しても、学びたいことが局限されており、それ以外の可能性は全く捨ててよいのであれば、正しい選択であろう。

こういった状況下であっても、東大に行きたい、京大に行きたいと思われる方は、やはり強い意志をもっていて、すばらしい上昇志向であると思う。ただ単なるブランド志向という面もあることは否めないのではないか。

今回は、こうしたブランド志向とはやや異なる観点から、最難関大学を目指すべき理由を考えてみたい。

大学で《勉強・学問》したいなら、最難関大学

①講義の「質」が異なる

勿論、京大の講義がすばらしくて、関西学院の講義がカスだと言いたいわけではない。ここに言う「」とは種類のことである。

・大学の先生は教育者というより研究者で、授業はうまくない

・偏差値の低い大学は教育にきちんと力を入れている

こうしたよくある認識が全く間違っているというわけではない。しかし、根本的に前提が間違っている可能性がある。こうした認識の根っこには、講義や授業といった教育サービスへの対価として学費を支払っているという発想がある。全否定するつもりはないが、この発想も認知科学的に不適切な教育観に根ざしており、厄介な問題である。これについては後日に期したい。

さて、種類が異なるということであるが、両極を提示する。

・最難関大学の講義は、研究の最前線を語る

・普通の大学は、教科書的な基本を教える

筆者は以前、関西学院大学に所属していた。関学はFランとかそういったしょうもないことが言いたいのではない。現実の一側面を提示したいのである。

ある哲学の原書購読(英語)の授業があった。しかし、課題図書は原書というよりは、英語で書かれた哲学に関する入門書というべきものであり、授業担当者は「可能な限り簡単なものをテキストにすべし」というお達しを受けたと語っていた。

また履修者が異常に多い。原書購読となると少人数でなければできないが、履修者は40〜50名ほどいたと思う。授業担当者は、教室経営に苦慮されている印象だけが残った。各回に数名が担当者として指名され、和訳を黒板に書くことで成績評価するという仕組みであった。やむを得ないことであると思う。賑やかで楽しかったが、何の勉強もできなかった。

筆者は現在、京都大学に所属している。京大は最難関大学とかそういったしょうもないマウンティングがしたいのではない。これも現実の一側面である。

これも哲学の原書購読(ドイツ語)であるが、課題図書はカントの原典である。授業担当者は、学生でカントをやっている人がいるとのことで依頼を受けたと語っていた。

履修者は10名に満たないし、ほぼ院生であるが、学部生でも受講できる。そもそも学部生と院生との隔たりが制度的にもあまりない。本当に静かで落ち着くが、バカなことは言えないという緊張感もある。

種類が異なるというのは、こういうことである。

②研究している人が身近にいる

長くなってしまったので、続きは別の機会に。