哲学と精読

共通テストは辛い

同志社志望の高3生(19)

英語長文の指導

『システム英語長文Basic』の6を新たに読み進めています。設問は比較的簡単だったそうなので、論証構造の分析を中心に行なっています。

第一段落と第二段落は、However によって逆接的に接続されていました。こういう場合は、何と何とを接続しているのかを考えるところから始めましょう。

今回は、古代と現代における森林伐採のペースが逆接的に接続されていました。つまり、古代においては、森林伐採のペースは緩やかであったが、《However》現在では、そのペースは比較にならないほど急速になっているということです。

さて、第二段落はというと、第1文に先ほどの《森林伐採ペースの急速化》が述べられた後、第2文、第3文でその事態が《具体化》され読者に提示されます。第2文では、急速化の状況が、年に4200万エイカーの森林が伐採されていると《数値化》され、第3文では、それがブリテン島よりも大きいと《直感的に分かりやすく》されています。

この段落では最終文は以下の通りです。

While there are important reasons for cutting down trees, there are also dangerous consequences for life on earth.

While は期間や対比が一般的ですから、少なくとも期間ではないと分かります。ここでは譲歩として用いられています。そういう場合もあると知っておくとよいでしょう。ここでは内容的にも対比と譲歩は、近しい意味なので、なんとかなるとは思いますが。

つまり、木を切る重要な理由があるのは確かであるけれども、木を切ると地球の生命に危険な結果をもたらすことにもなる、という趣旨がつかめればOKです。

さて、この文の筆者のメインの主張は何でしょうか。それはやはり主節にあると考えるべきでしょう。この主張に肉付けがなされることを期待して読み進めることになります。

では、第3段落の第1文を見てみましょう。

A major cause of the present destruction is the worldwide demand for wood.

まず訳してみて意味を考えてみると、

現在の森林破壊の主たる原因は、木材への世界的な需要である。

ここで考えてみてほしいのは、第2段落とのつながりです。先ほど、メインの主張《森林伐採の危険性》について肉付けされることを期待すると言いましたが、その期待は裏切られていることに注目してください。期待が裏切られたからといって拗ねてはいけません。仮説と検証をめげずに繰り返しましょう。

さて、この一文は第2段落とどのようにつながっているのでしょうか。

A major cause of the present destruction

これはどの表現を承けたものなのか。従属節を見てみると…

While there are important reasons for cutting down trees

木を切る理由がある→木を切る→現在の森林破壊という流れが確認できます。

つまり、今回は第2段落で譲歩的に導入された内容が、この段落で主題化されているのです。仮にこのつながりが把握できなくても、主節の主張とは異なる内容がこの段落で語られるだろうということが察知できるとよいでしょう。

さて、第2文も読み進めると、

In industrialized countries, …とあります。これはworldwide の具体化です。せっかくなので、板書をお示します。

In industrialized countriesは、《一例》であるとしています。ワールドワイドといったときに、先進国のみを取り上げるのでは片手落ちだからです。つまり、発展途上国についてもこの後語られるであろうと予想できるわけです。

指導の難しさ

受講生は、様々な学校活動が重なっており、また他の事情も重なり、コンディションが悪い状態でした。後半は受け答えが苦しくなってきました。基礎知識で分からないときは、「調べます」と宣言して、調べたことを話すなりしながら、議論を進めてくださいと伝えていますが、今日は沈黙が続いてしまいました。

勿論、いいパスを出すことが私の仕事ではあるのですが、試験場では一人で答えを出さなければなりませんし、限られた情報から正解へと進んでいかなければなりません。ただ疲れているとこれはできません。かと言って、それでは授業が成り立ちません。コミュニケーションの次元で解決できることでもないので悩ましく思います。

同志社志望の高3生(18)

現代文の指導

引き続き『現代文読解基礎ドリル』に取り組んでいます。本人も慣れてきたようで、自習でスムーズに進めてくれているようです。今回も私が特に注目した設問を復習がてら取り上げて、検討していきました。

対比の章の演習6を扱いました。内容は、喜劇論であり、ある喜劇の作品としての価値を判定するような文章でした。

論を捉える

冒頭5行ほど割かれて、劇作家であるサイモンの喜劇『おかしな二人』について述べられていました。生徒はこれを《具体例》であると把握していました。それ自体は、必ずしも誤りというわけではないですが、サイモンなり『おかしな二人』なり、固有名詞が出現しているから《具体例》であると判断するのは、(予測的な読みとしては許されるものの)早計であると指摘しました。

なぜなら、評論文における《具体例》は《論をサポートする》ものとして、《論と例》がセットになっていなければならないからです。今回の『おかしな二人』についての記述に対応する《論》はなく、ただそういう喜劇があると紹介されているにすぎません。

ではなぜ紹介されているかというのは、続きを読めば分かります。

次の段落では冒頭で、「多幕物の喜劇をただひとつの趣向を用いて成立させることには、実はかなりの無理がある」と指摘されています。ここでのただひとつの趣向を用いた多幕物の喜劇とは、サイモンの『おかしな二人』であることは第1段落を読めば分かります(し、それ以外に候補がありません)。

つまり、《サイモンの『おかしな二人』は、無理がある》というのが筆者のテーゼ(論)であり、ここでの固有名詞は《例》ではなく、《論の一部》あるいは《論の対象》というべきなのです。

いかにして論を説得力あるものにするか

続いての問題は、論をいかにして証明するかということです。

理由や根拠のないテーゼは、論ではなく、単なる意見表明です。筆者は読者に納得してもらえるように、論の根拠を提示することに関心がある場合が多いです。

さてこのような論証にはいくつかの手法がありますが、ひとつには《論と例》、すなわち具体例を提示することによって実際に論が正しいことを証明する場合です。

もうひとつは、今回の対比です。つまり、サイモンの喜劇と、他の喜劇とを対比することによって、サイモンの喜劇の性質を明らかにし、以て論の正しいことを示すのです。

詳しく言うと、サイモンの喜劇を傑作とされるシェイクスピアゴルドーニの喜劇と対比させることによって、サイモンの喜劇が傑作ではないことを論じるということです。

・AとBとのあいだには、《重要な違いがある》

・Aは〜である。ところが、Bは〜である。

形式的にはこういった表現に注目して、対比による論証を意識していくことが大切です。内容がよく分からなくても、分かるところから始めることが鉄則です。

因みに《論》は繰り返されるという傾向がありました。今回は、《論→対比による論証→論》という構造になっています。

・多幕物の喜劇をただひとつの趣向を用いて成立させることには、実はかなりの無理がある

・『おかしな二人』とは、設定について無理をした結果、傑作になりそこねた

この二つはほぼ同趣旨の論の繰り返しであるということです。

同志社志望の高3生(17)

源氏物語を読む

源氏物語を読むということですが、ここ最近は文法的分析が中心になっています。注目せざるを得ないほど複雑なので、いい演習になると思ってるところです。

演習において重要なことは、答えを言い当てることではなく、仮説と検証のプロセスを繰り返して合理的に回答案を出すことです。このあたりの発想がまだ本人に乏しいので、その意味でも指導が必要です。

さて、課題となったのは、

母君泣く泣く奏してまかでさせたてまつりたまふ

という一節で桐壺更衣の病が重くなったために宮中を離れなければならないという場面で、テーマは主体客体の判定と敬語法の整理です。

「母君泣く泣く奏し」まではほぼ適切に理解して説明できていました。次に問題となるのが「て」でありますが、結論的には接続助詞となりますが、助動詞「つ」の連用形と把握してしまいました。これは直後に「まかで」と動詞が続いているので順序としておかしいということで、仮説を修正できました。

さて、「まかづ」ですが、先週はその基礎知識をすぐに言えていましたが、今回はやけに詰まってしまっていました。詰まったときは資料を参照してよいと伝えていますので、本人は参照するのですが、その参照の仕方が「クローズド」な点が問題であると思いました。それは所作から明らかで、手元を隠しながら、解説書を参照していました。そして、そこに書かれてある結論だけを読み上げたのです。これでは議論になりません。そこに仮説と検証の思考がありません。

まず、参照資料を明らかにするよう指示しました。勿論、私が配布した資料なので、何であるのかは知っています。重要なのは、私が参照元を知りたいということではなく、本人が参照元をはっきり自覚して表明する態度が必要だということです。私に答えを言って◯をもらうことが目的になっては、学習はお終いです。

その解説書には結論的な答えのみが書かれていることを指摘して、その答えを目指して基礎から説き起こすように指示していきました。

その後の議論は、複線的なので説明しませんが、重要なのは「迷う」ということは複数の可能性があるということであり、その可能性を留保しつつ、最も合理的なものを検討するということです。勿論、最も合理的と思われたものが、検討していくと間違っていることに気づく場合もあるでしょう。そのとき、振り出しに戻る根気も大切です。そこは根性の見せ所だと思います。

 

ポイントだけまとめると

母君泣く泣く奏してまかでさせたてまつりたまふ

①接続助詞「て」→「まかでさせ…」の主語も母君である可能性が高い

②「まかづ」は謙譲の本動詞で「貴人の所から退出する」→この文脈からして「桐壺更衣が帝のもとから退出する」可能性が高い

→①・②より、「させ」は尊敬ではなく、使役の可能性が高い。尊敬だと「母君が退出する」という意味になってしまう。

③「たてまつり」は謙譲、「たまふ」は尊敬のいずれも補助動詞として用いられている

→尊敬は行為の主体、すなわち母君に敬意を表す

→謙譲は行為の客体、すなわち「まかでさす」という使役の対象(桐壺更衣)に敬意を表す

→「まかづ」だけを取り出すとそれは謙譲語として、帝に敬意を表している

なぜ最難関大学でなければならないのか?①

難関大学を目指さなくてもいい?

学歴だけが全てではない

・東大や京大でなくとも、十分いい企業に就職できる

・大学名ではなく、自分の学びたいことを基準に大学を選ぶべきだ

これらはみな正しいと思う。

確かに、就職やその後のキャリアということを考えると、必ずしも東大や京大に拘る必要はない。関西なら大阪公立大や同志社でも全然構わないと思う。

3つめに関しても、学びたいことが局限されており、それ以外の可能性は全く捨ててよいのであれば、正しい選択であろう。

こういった状況下であっても、東大に行きたい、京大に行きたいと思われる方は、やはり強い意志をもっていて、すばらしい上昇志向であると思う。ただ単なるブランド志向という面もあることは否めないのではないか。

今回は、こうしたブランド志向とはやや異なる観点から、最難関大学を目指すべき理由を考えてみたい。

大学で《勉強・学問》したいなら、最難関大学

①講義の「質」が異なる

勿論、京大の講義がすばらしくて、関西学院の講義がカスだと言いたいわけではない。ここに言う「」とは種類のことである。

・大学の先生は教育者というより研究者で、授業はうまくない

・偏差値の低い大学は教育にきちんと力を入れている

こうしたよくある認識が全く間違っているというわけではない。しかし、根本的に前提が間違っている可能性がある。こうした認識の根っこには、講義や授業といった教育サービスへの対価として学費を支払っているという発想がある。全否定するつもりはないが、この発想も認知科学的に不適切な教育観に根ざしており、厄介な問題である。これについては後日に期したい。

さて、種類が異なるということであるが、両極を提示する。

・最難関大学の講義は、研究の最前線を語る

・普通の大学は、教科書的な基本を教える

筆者は以前、関西学院大学に所属していた。関学はFランとかそういったしょうもないことが言いたいのではない。現実の一側面を提示したいのである。

ある哲学の原書購読(英語)の授業があった。しかし、課題図書は原書というよりは、英語で書かれた哲学に関する入門書というべきものであり、授業担当者は「可能な限り簡単なものをテキストにすべし」というお達しを受けたと語っていた。

また履修者が異常に多い。原書購読となると少人数でなければできないが、履修者は40〜50名ほどいたと思う。授業担当者は、教室経営に苦慮されている印象だけが残った。各回に数名が担当者として指名され、和訳を黒板に書くことで成績評価するという仕組みであった。やむを得ないことであると思う。賑やかで楽しかったが、何の勉強もできなかった。

筆者は現在、京都大学に所属している。京大は最難関大学とかそういったしょうもないマウンティングがしたいのではない。これも現実の一側面である。

これも哲学の原書購読(ドイツ語)であるが、課題図書はカントの原典である。授業担当者は、学生でカントをやっている人がいるとのことで依頼を受けたと語っていた。

履修者は10名に満たないし、ほぼ院生であるが、学部生でも受講できる。そもそも学部生と院生との隔たりが制度的にもあまりない。本当に静かで落ち着くが、バカなことは言えないという緊張感もある。

種類が異なるというのは、こういうことである。

②研究している人が身近にいる

長くなってしまったので、続きは別の機会に。

同志社志望の高3生(16)

英語長文の指導

引き続きシステム英語長文Basicの5を読んでいます。

冒頭、軽く英文を読み直してもらい、これまでの論証構造を振り返ってもらいました。学校と実社会の対比があり、学校の方がマイナスイメージをもって語られていました。

続いて検討の対象となったのは、実社会の様子を記述したうえで、筆者の立場を補強するようなことが論じられている以下の箇所です。

Carlos Vignolo, an excellent professor at the University of Chile, told me that he challengingly suggests that students take classes from the worst teachers in their school because this will prepare them for life, where they won't have talented educators leading the way.

妙に長い一文ですが、大まかな文構造は問題なく把握できていました。That節の処理などはもう問題にすらなりません。関係副詞のWhere とその先行詞が life であることも処理できています。

むしろ問題となったのは以下の箇所です。

this will prepare them for life

prepareが「準備する」という意であることは知っていましたが、それだけでは実際の英文に対応することはできません。

動詞はその意味とともに、その使い方(語法・用法)にも気を配らねばなりません。つまり、動詞の後ろにどのような語句が、どのようにして並べられるかということをある程度知っておかなければなりません。自動詞や他動詞といった概念区分は、こうした後続要素の有る無しに関わるものだから、重要なのです。

さて、prepareは自動詞の用法も他動詞の用法もあります。今回の英文では、他動詞として用いられているので、そちらを検討します。

prepareは他動詞の用法に2系統あります。いずれも第4文型の形を取ります。

S V O1 for O2 という形態です。さて意味はというと、

1.Sは、O2のためにO1を用意する

2.Sは、O1にO2の覚悟をさせる(準備させる)

まず共通して言えることは、for O2に関して、O2はいずれも、これから生じるもので、それに向けて(心の)準備が必要なものである点です。

では、その(心の)準備をする主体は誰なのかというと、これが1と2の決定的な差異なのですが、1では準備するのはSです。

They prepared agenda for the meeting.(彼らは会議に向けて議題を準備した)

これに対して、2では準備するのは(直接的には)O1です。

prepare him for an examination(彼に試験に向けて準備させる)

prepare a patient for surgery(患者に手術に向けて心の準備をさせる)

さて、本文に戻りましょう。

students take classes from the worst teachers in their school

because this will prepare them for life

ここでのO1(them)は学生たちです。彼らが人生に向けての準備をする主体です。そして、その準備をさせるのがS(this)というわけです。これは下線部の内容を承けていますから、無生物です。

それゆえ、無生物主語構文のような訳出も可能です。つまり、

「このことは、学生たちに人生に向けての準備をさせる」

「これにより、学生たちは人生に向けての準備をする」

動詞の後続要素を考察するときに、そこにS-Vの関係が潜んでいないかを探すことで、このような気づきを得ることができます。

同志社大学の英語を解説しています(1)

2024年の同志社大学(全学部・文系)英語の第1問を解説しています。

構文の説明は最小限にして、初見でどのようにして読み解いていけばよいかという観点から記述しています。その意味では、中上級者向けであると思います。

相当な長さになったので、PDFファイルとして共有リンクを貼っています。

解説・同志社2024(全学部・文系)① .pdf (解説・同志社2024(全学部・文系)① .pdf) ダウンロード | 説明おじさんのアップローダー | uploader.jp

旧帝大早慶を志望している人にとっても、有益な読解の視点がお伝えできるかと思います。興味があれば解いてみてください。今年の問題なので、解答速報から問題文はゲットできます。

 

同志社志望の高3生(15)

現代文の指導

4/10(水)の指導

『現代文読解基礎ドリル』の演習4・5を扱いました。

演習4は《論と例》の演習問題でした。文章における論と例、それぞれの該当箇所を指摘してもらいながら、論証構造を確認していきました。

今回取り上げられていた例は、西洋の文学や美術だったので、とっつきにくい点がありましたが、論と例との対応関係をおさえながら、読み進めていけば読解は十分可能であることを確認しました。

《例》と一口に言っても、比喩であったり、引用であったり、色んな例証の仕方があるということも実地で確認できました。また、論述をまとめて締めくくる働きをしている「つまり」についても学びました。

演習5は、第2章に入り《対比》に注目していきます。

本文では、観阿弥世阿弥とが対比され、狂気に陥る原因の捉え方において相違がみられるということでした。対比を導入する語句に注目しながら、対比されている2項の共通点と相違点とを確認することの重要性をお伝えしました。

アメリカニズムの終焉』を読む

第4章を読み進めています。冷戦体制がどのようにして構築されたかを、その一般論との対比しながら、筆者が検討していっています。

一般的に冷戦体制は、共産主義イデオロギーの拡大に対する自由主義諸国による防衛と理解されていますが、筆者が指摘するのは、スターリンの本当の利害関心です。

歴史的にみて、国際政治におけるスターリンは、理想的な共産主義の建設ではなく、自国の安全保障ばかりを気にしていました。また、チャーチルルーズベルトとの会談においても、バランス・オブ・パワーの発想に基づいて、交渉がなされました。

それゆえ、終戦前後においては、両者の対立を自由主義共産主義という図式で理解するのは早計ということになります。

さて、後にこのバランス・オブ・パワーの発想から別の考え方へ転換するわけですが、その内容は次回に持ち越しとなります。