哲学と精読

共通テストは辛い

教師と学生;師匠と弟子

社会人からの問い合わせがありました

先日、ある業務委託の仲介業者を介して、社会人からの問い合わせがありました。曰く、歯学部を卒業して結婚を機に関西に移り住み、自己改革のために神戸大学医学部を受験する予定とのことでした。

問い合わせがあった以降は、講師がチャットで応答することになっていますので、応答しますと、既読はついているのですが、丸一日返事がありません。今度は、一日置いて、再度詳細な案内をするのですが、これも既読のみで返事がありません。

どうしようもなく困ってしまったので、委託業者に連絡するも、全く当を得ない返答のみ、もう一日経ってようやく理解したのか、先方に確認を取っていただきました。

その内容は至って平凡で、曰く、他の講師の体験授業を申し込んでいるので、保留したいとのことでした。

その事情自体は全く理解可能なものなだけに、《なぜその一言が自分から言えないのか》ということに大きな引っ掛かりを覚えました。委託業者は、先方に私の方に連絡するよう指示してくださったようで、遂にチャットに返事をもらったのですが、曰く、連絡が遅くなり申し訳ありません、他の講師の体験授業を検討しているので、保留にさせてくださいとのことでした。

言葉の貧しさ

先方からの連絡は、たったの二行でした。

謝罪をするのは是としても、その後の発言が不分明であり、相手に必要以上の負担を与えるものでした。せめて、その体験授業がいつなのかくらいは伝えていただけなければ、保留のしようがありません。またそういったことへの配慮や敏感さを感じさせる筆致は全くありませんでした。

ここに疎外があります。先方は私のことを人間とは思っていないのです。サービスの提供主体だと認識しているのです。サービスの提供主体とは、煎じ詰めれば servant 奴隷であります。

中高生ならまだしも社会人です。この時点で、今後前向きな問い合わせはないだろうと予期した私は、敢えて苦言を先方に申し上げました。社会人であるという期待との落差が大きかったからかもしれません。やや辛辣な物言いになったことは事実です。

しかし、驚くべきことにその《社会人》は私の呼びかけを文字通り無視しました。反論さえしません。そして、言葉によってではなく、システム操作によって問い合わせをキャンセルしました。

この《社会人》は、言葉とは何か、人間的に応答するとはどういうことかを習わなかったのでしょうか。このようなことを考えると、先方が「自己改革を重視している」と言ったことが、皮肉な響きを持って思い返されます。この自己は改革しても、おそらくエゴイズムを脱することはできないのではないかと思います。

あるいは、自己改革などは上辺だけのことであり、実態は医学部受験への過剰な執念なのかもしれません。この医者の卵が、患者の愁訴を重んじる医師になることだけを、せめて望むばかりです。

サーヴァントとしての教師

神のサーヴァントとしての聖職者から、餓鬼の奴隷としての教師になってしまったと言ってよいと思われます。《天や神》といった形而上学的威厳を喪失してから、人間の上下関係が、金銭的関係によって規定されるようになりました。そのような感覚のもとで人々が行動しています。人間が神を乗り越えてしまってから、人は金銭の多寡によって、人にマウントをとるようになりました。

ヒューマニティとしての師匠と弟子

私は何も、教え子たちに威張りたいのではありません。それはつまらないことです。楽しくないことです。私が求めているのは、尽くし甲斐のある弟子なのかもしれません。相互的な敬意のもとに、人間的な関係を欲しているのかもしれません。

この点において、若い人々のほうが、よほど素直で真面目なのかもしれません。