哲学と精読

共通テストは辛い

同志社志望の高2生(1)

中学3年からのお付き合いです。

元々、英語は苦手科目だったそうですが、今ではすっかり定期テスト得点源になりました。定期テスト対策は、ほとんどお任せしているくらいです。

文法はかなり高度なレベルまでおさえているので、後は《精読の高速化》を積み上げていくだけです。

現代文の指導

さて、今回の指導では、佐伯啓思アメリカニズムの終焉』を読みました。

佐伯啓思の文章は、一時期は入試でよく出題されました。評論文は《近代》を問題視することが多いですから、背景知識を立体化していくことが重要です。そのためには、キーワード読解を暗記して終わっていてはいけません。筆者と問題意識を共有しながら、その用語を使いこなすレベルにまで落とし込んでいきましょう。

今回は、リベラル・デモクラシーの本質的な対立関係をおさえました。本文中で、手を変え品を変え登場している問題意識なので、本人も承知し始めたようでした。

冷戦終結後、マスコミや知識人によって、楽観的にリベラル・デモクラシーの勝利が謳われたわけですが、筆者によると、その延長線上でフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』が解釈されてしまったようです。

ですが、フクヤマの議論はそう単純でもないようです。

プラトンの魂の三区分やニーチェの末人などのアイディアを活用しつつ、やや悲愴感を漂わせつつ、「歴史の終わり」を語っているとのこと、曰く、他者よりも優れた存在でありたいという気概(優越願望)が、リベラル・デモクラシーによって制御されてしまった結果、歴史を動かそうとする野心は消えて、自分の金儲けのことしか考えられない人間が生まれてしまった。

本人に感想を訊いてみると、「世の中が面白くなくなっている」とのこと。

なかなか筋の良い回答です。リベラルはともかくとして、デモクラシーはその概念のうちに《平等》を含んでいます。選挙権を考えてみればすぐに分かります。Aさんは5票もっているが、Bさんは1票しかないとしましょう。これではデモクラシーではなく、階級制です。民主主義というときは、その前提に人民の平等があるわけです

ですが、考えてみれば当然のことですが、世の中や人間それ自体は、平等ではありません。

何をやっても上手な人もいれば、何をやっても下手な人もいます。これを無理に平等化しようとすると自由が失われます。能力のある人が、能力を発揮する自由を制限されてしまいます。能力のない人に、能力を与えるのは原理的に難しいからです。

不自然な平等化志向は、日常にも侵食しています。

順位をつけない徒競走などが一部で行われているようです。開いた口が塞がらない。競争して一番になりたいという優越願望は、野蛮なものだと否定されているかのようです。血なまぐさい権力闘争が統制されるべきなのは確かですが、健全な競争まで抑え込んでどうしたいのでしょう。本当に気持ち悪い。