哲学と精読

共通テストは辛い

同志社志望の高2生(5)

本日は現代文

引き続き『アメリカニズムの終焉』を読んでいます。第三章は、19世紀イギリスから20世紀アメリカへの覇権の移行について述べられています。

ここには古典的リベラリズムからアメリカン・デモクラシーへの高らかな跳躍を見て取ることができます。つまり、19世紀アメリカが勢力均衡的な発想のモンロー宣言の下での孤立主義から、20世紀アメリカのウィルソンという伝道師を介して、理想主義的な国際秩序を宣言するという転換を果たしたということです。

ウィルソンの理想主義は、自由を保障すれば国際紛争が自然と解消されるという楽観的で古典的なリベラリズムを引きずるものであり、その点がカーによって批判されました。カーの指摘で興味深いのは、単に最も強力なハード・パワーをもつ国家が覇権を握るというのではなく、歴史的に形成された道義も要因となっているという指摘です。

これは現在の国際政治情勢に当てはめてみれば、リベラル・デモクラシー対ネオ・ユーラシア主義(反リベラル)という図式になるのでしょうか。フクヤマの予想した「歴史の終わり」は、プーチンという気概ある英雄(?)によって否定され、歴史は再び動き出した(あるいは、動き出してしまった)と言えそうです。

自主性がなければならない

受験勉強という言葉遣い、すなわち、勉強に「受験」という形容語句を付して限定することは、好ましいものではないように思われます。確かに、大学入試と受験は必要悪です。定員を超えれば、学びたい者であっても選抜してふるい落とさざるを得ないからです。しかし、大学入学を目指す人々の生活を《受験勉強》という語によって語るのは一面的です。

スポーツに基礎練習と演習試合があるように、学習にも《基礎訓練》《演習》があります。前者は、英単語を覚えたり、辞書を引いたりと辛い勉強ですが、それを実行してこそ《実践演習》は、楽しい学びとなりますし、基礎訓練の効果を実感できる瞬間でもありましょう。

中高生の間は、強制力に守られながら、自主性へと飛躍していく段階です。《言われたからやる》というのでは、学力は頭打ちです。教師が何故そのように指示しているのかという理由にまで遡って考える癖を身に着けてほしいと思います。この合理性に慣れてくれば、自分が何をすべきなのかということも自力で考え出せるようになっていきます。