最難関大学を目指さなくてもいい?
・学歴だけが全てではない
・東大や京大でなくとも、十分いい企業に就職できる
・大学名ではなく、自分の学びたいことを基準に大学を選ぶべきだ
これらはみな正しいと思う。
確かに、就職やその後のキャリアということを考えると、必ずしも東大や京大に拘る必要はない。関西なら大阪公立大や同志社でも全然構わないと思う。
3つめに関しても、学びたいことが局限されており、それ以外の可能性は全く捨ててよいのであれば、正しい選択であろう。
こういった状況下であっても、東大に行きたい、京大に行きたいと思われる方は、やはり強い意志をもっていて、すばらしい上昇志向であると思う。ただ単なるブランド志向という面もあることは否めないのではないか。
今回は、こうしたブランド志向とはやや異なる観点から、最難関大学を目指すべき理由を考えてみたい。
大学で《勉強・学問》したいなら、最難関大学
①講義の「質」が異なる
勿論、京大の講義がすばらしくて、関西学院の講義がカスだと言いたいわけではない。ここに言う「質」とは種類のことである。
・大学の先生は教育者というより研究者で、授業はうまくない
・偏差値の低い大学は教育にきちんと力を入れている
こうしたよくある認識が全く間違っているというわけではない。しかし、根本的に前提が間違っている可能性がある。こうした認識の根っこには、講義や授業といった教育サービスへの対価として学費を支払っているという発想がある。全否定するつもりはないが、この発想も認知科学的に不適切な教育観に根ざしており、厄介な問題である。これについては後日に期したい。
さて、種類が異なるということであるが、両極を提示する。
・最難関大学の講義は、研究の最前線を語る
・普通の大学は、教科書的な基本を教える
筆者は以前、関西学院大学に所属していた。関学はFランとかそういったしょうもないことが言いたいのではない。現実の一側面を提示したいのである。
ある哲学の原書購読(英語)の授業があった。しかし、課題図書は原書というよりは、英語で書かれた哲学に関する入門書というべきものであり、授業担当者は「可能な限り簡単なものをテキストにすべし」というお達しを受けたと語っていた。
また履修者が異常に多い。原書購読となると少人数でなければできないが、履修者は40〜50名ほどいたと思う。授業担当者は、教室経営に苦慮されている印象だけが残った。各回に数名が担当者として指名され、和訳を黒板に書くことで成績評価するという仕組みであった。やむを得ないことであると思う。賑やかで楽しかったが、何の勉強もできなかった。
筆者は現在、京都大学に所属している。京大は最難関大学とかそういったしょうもないマウンティングがしたいのではない。これも現実の一側面である。
これも哲学の原書購読(ドイツ語)であるが、課題図書はカントの原典である。授業担当者は、学生でカントをやっている人がいるとのことで依頼を受けたと語っていた。
履修者は10名に満たないし、ほぼ院生であるが、学部生でも受講できる。そもそも学部生と院生との隔たりが制度的にもあまりない。本当に静かで落ち着くが、バカなことは言えないという緊張感もある。
種類が異なるというのは、こういうことである。
②研究している人が身近にいる
長くなってしまったので、続きは別の機会に。